和歌山県有田郡広川町 2009年5月
濱口梧陵の功績を訪ねて
平成21年5月23日(土)に和歌山県有田郡広川町
グリーンシティ防災会の幹部9人で視察に行きました。

まず始めに訪れたのが、広川町役場です。

やはりしっかりと町民憲章が建っていた
うーん、なになに・・・
広川町役場前にて

広川町は、湯浅湾に面した一番窪んだ有田郡の南に位置しています。


町役場は、広村堤防の北の端に建築されています。

役場の前には、濱口梧陵さんの松明を掲げた姿の銅像が・・・
                         
                        みなさん、しっかりと学習しています。



                        大西防災会長、何を確認中ですか?

                          
                          実は、この文面を熟読していました。

                          クリックで拡大してお読み下さい。

せっかくなので、記念撮影!!
街中には・・・

電信柱には、各所に海抜からの高さが表示されています。



ここは、海抜3.0mです。




                          
                避難看板をあちこちで確認しました。

稲むらの火の館へ

天候にも恵まれ・・・

とにかく暑い!!

いざ館内へ

小泉純一郎元総理の手書き書

濱口梧陵記念館と背後に建つ津波防災教育センター

稲むら火の館ホームページ
まず濱口梧陵記念館から

玄関では、靴は自分で持って回ります。

木造家屋なので中は快適温です。
    

玄関正面には、濱口梧陵の銅像が・・・


縁側を通って奥へ奥へ

この時代でもバリアフリー?
梧陵さんもおちゃめな面をお持ちで・・・

『梧陵のいたずらエピソード』
ある冬の寒い日、ご馳走をするからと村の若者十五、六人と招かれました。
皆喜んで行くと、通された部屋は障子も襖もなく骨までしみるような寒風が吹き込むのに火鉢一つないのです。
多分、寒い目にあわせておいて何か温かいものでも出してくれるのだろうと思っていたら
運ばれてきたご馳走は何と氷を浮かべた冷やしそうめんです。
梧陵さんは先に食べ始めながら「私は年をとっているから寒さが堪えるけど、君たちは若いからそんなこともあるまい」とすました顔で言いました。さすがに若者たちもあいた口がふさがりませ んでした。       =濱口吉右衛門談=

ひとまず、”濱口梧陵記念館”はのちほどへとつづく・・・

左へ行けば津波防災教育センターへ




                   通路の奥に津波防災教育センターがあるのです。
津波防災教育センター

2007年(平成19年)に、”稲むらの火”から受け継がれて出来た施設です。


”伝える”が形になったんですね。
センターは3階建て(閲覧順路は、上階から)

 3階  展示室(世界の津波被害をパネルで紹介)

 2階  稲むらの火 展示室(濱口梧陵さんの功績や教訓、人物像等)
     津波ライブラリー(津波について学ぶコーナー)

 1階  津波シュミレーション(実験水槽での津波模擬)
     3D津波シアター(3D映像で迫力の津波体感)
     防災体験室(津波や災害備えて知識を身につけるコーナー)
まず3階から

映像は、2004年12月に発生した、スマトラ島沖地震によるの津波の様子
 

      パネル写真より
  

上の写真は、
津波が水の塊となって襲ってきた瞬間です。


日本からも救援の手が・・・

 電車もばらばらに流されて・・・




自然は驚異です。


あまりの光景に一同無言・・・


平林防災会副会長も言葉なく。
  
                      津波に対して、わたしたちが出来ること

                        「いち早く逃げる」のひと言!!
ここから2階です

当時の地震計?

当時、広村に起こった津波を再現!!



小嶋理事長  ボタンプッシュ(ON)

第一波から第二波が迫ってくる様子!!

この時点でも約4割が水没してしまっているが、
次の第二波で平地部の村がほぼ全面水没してしまいました。
     
”稲むらの火”の紹介がされています。


その後の功績として伝承されています。






    
     下のパネルがそうです。

「海岸付近で地震を感じたときは津波に注意し高台に避難する必要があ
る」という梧陵さんの知識が、稲むらに火を放つ行動につながりました。
現代の私たちに高台への避難路や日ごろから逃げ込む高いビルを把握
しておくことが大切であるとの教えです。
また、津波後の対策としてにぎり飯を被災者に配りました。不足してく
ると休む間もなく食料確保に努めました。これは、現在も被災時に助け
合いの精神で行われる「炊き出し」です。

津波の後、村人の住む家の確保のため私財を投じ仮住居を建てたり輸
送に必要な道路や橋の修復工事を手がけました。公的資金がこれに当ります。
災害で職を失った人のために、堤防建設に参加させ賃金も日払いとす
る工夫まで行いました。そのことにより村人は故郷にとどまり立ち直
ることが出来ました。
良質な田畑は塩害により堤防の敷地にすることで、藩の課税対象から
外す交渉をしました。
つまり、梧陵さんは防災対策と失業対策を同時に推進したのです。

将来の津波被害を防止するため、1855年(安政2年)梧陵は、
広村堤防建設をほとんど自分の私財でまかないました。

 総工費   銀94貫(現在の価値にして一億5千万円位)
 工 期   3年10ヶ月
 人 員   5万6736人
 広村堤防  高さ 5m 幅 20m 長さ 600m

強化のため、海側に松の木、土手にははぜの木を山から移植しました。

 1858年(安政5年)12月 広村堤防完成



                     
                     実に深い言葉です。



万一にあわてるのではなく、

常日頃から非常に備える心構えを持ちましょう。

視覚的にわかりやすい工夫がされています。


過ちを繰り返さないために!!

ハードの準備はOK?!

ソフトとのバランスはいかに!
個人の受け止め方で助かるか否か・・・



・・・皆さんいかがですか?
いよいよ1階

左が津波実験水槽で全長約16メートルです。

平常時の様子

津波とは、

地震、海底変動などによって生じる波長の長い波。海岸に近づくと
急に波高を増し、土手のようになって押し寄せる。
(小学館現代国語例解辞典(第二版)より)

科学的には、海底の地殻変動によって発生する、たいへん波長の長
い、しかも破壊力の大きい異常な波ということになります。

広村に来た津波・・・

かなりの高さです。



串本では最高8.3mの水のかたまりが襲いました。

津波シュミレーターの横にある防災体験室の入り口です。

各行政が出しているハザードマップより

この言葉が良かったなぁ「無駄足覚悟で避難を」
防災なんて、無駄になってもいいんじゃないですかねぇ
でも、どんなことも「決して無駄にはならないものですよね梧陵さん」



    防災体験室にあった救出ゲーム”INAMURAレンジャー”を
    制覇した認定書です。解答者は、小嶋理事長です。



     よく出来ました。
津波防災教育センターをあとに

再び、”濱口梧陵記念館”に戻って・・・


安政聞録(あんせいもんろく)
安政南海地震の直後からの広村の様子が示されています。

濱口梧陵(儀兵衛)の人物画

《濱口梧陵さん 紹介》  1820年(文政3年)〜1885年(明治18年)
「稲むらの火」の出来事は有名ですが、ヤマサ醤油を営む事業家としても功績を残し
また、教育面でも私塾を開校しました。

明治 4年(1871年)駅逓頭(現在の郵政大臣に相当)に任命
明治12年(1879年)和歌山県議会初代議長に選任


儀兵衛の章

館の中には、梧陵の人柄を感じさせるエピソードに出会えます。



梧陵さんは、おそばが好きというのも発見です。








               せっかくなので、記念撮影!!

                   PART 2
広村を散策して

また発見!!



ここは海抜2.5mです。



町中、大抵の電信柱には海抜表示がされていました。


             おや・・・                         


  ここは、稲むらの火の館から少し歩いた所にある東濱口公園!!

                        入ってみよう。

右に見えるのは、おしゃれなお手洗いです。

奥には強固な倉が!



吉崎防災会副会長は、何を見ているのでしょう?

  答えは、パーゴラ

 
古い街並みに突如、3階建て?




濱田自治会長、遅れないで!! 


 
建物の歴史を感じながら、
ECOの象徴?
ソーラーパネルが!!


海岸近くまで来ましたが、これは堤防の中心部にある「赤門」です。

「赤門」の手前、広村堤防の海側にある石堤ですが、
室町時代の豪族畠山氏によって造られたとか。



奥には感恩碑の横姿が見えます。



感恩碑の正面写真です。




平林防災会副会長と大きさを比較してください。


              感恩碑に刻まれている言葉です。

              災害から広村を守り、発展させて
              きた多くの先人の想いを偲び梧陵
              の偉業とその徳を称えたもので、
              昭和8年12月に建立されました。



いよいよ広村堤防へ

海抜5mの広村堤防・・・


画像右が海側


この傾斜部分は、コンクリートで補強済み?!


画像右が海側


広村堤防の完成当時に移植された黒松が
立派な姿で今も堤防を頑丈に支えています。


歴史を感じる光景です。




さらに進みますよー!



広村堤防ほど長くはないですが
海側には石堤も並列しています。


途中には、足場もあり海側へ行きやすくなっています。


いざ石堤越え!!

そこは、湯浅広港でした。



安政の地震では、画像の奥から津波がやって来たのか !!







堤防に戻り歩くこと約600m、そろそろ端に近づいてきました。


広村堤防の南端には、
防潮林補植・防浪提補修記念がありました。





維持をしていくのも後世のため!!
これも梧陵さんの教え・・・根付いてます。
広村堤防から耐久社へ

耐久社(耐久舎) 間口9m 奥行12m 地積33坪 室内6部屋

江戸時代末期に浜口東江、岩崎明岳等によって剣術や学業を教授
する稽古場(私塾)として創設され、この私塾は後に「耐久社」と
呼ばれ耐久学舎と名を変え、現在の耐久中学校となっています。

「耐久社」は耐久中学校の敷地内に残されています。
  
学校か・・

みんな子供の頃を・・

想い・・



もう記憶に無い?・・かな。


耐久社(画像左)と並んで耐久中学校

校舎はもともと堤防内にあったのですが、明治39年に堤防外に移転しました。



!!よく見ると、後方の山の上に風車を発見!!
 
校庭の横には、梧陵さんの銅像が・・・
昭和42年1月に建立



時代を担う子供たちを見守っているのでしょうか? 



ちょうど時間的に逆光になってしまい、残念!
出来る限り補正してみました。

校庭のすぐ横にあった何気ない電話BOX!

災害時には、一番有効かも!!
 
いったん駐車場へ・・・みんな少しお疲れ気味? 




   これから濱口梧陵さんのお墓へ
ここから車で移動

梧陵さんのお墓は、淡濃山の山麓(耐久中学校の南西方向)に位置します。
 
広村を守り発展させてきた梧陵さんのお墓にしては質素ですね! 


梧陵さんが、稲むらの火で村人を導いた”広八幡神社”です。



高台?かどうかは・・・私だけでしょうか。

 本堂を含めて、ひっそりとした雰囲気です。 


稲むらの火祭りが10月に行われる時は村人が集ってにぎわう様です。

広八幡神社を後に視察は終了しました。

広村散策を終えて
昔からの言い伝えを、濱口梧陵さんは理解し村人を救えたんだとしたら
物が豊富な現在、備えを怠らず心の準備をしていれば大切な人を守るこ
とも、助かる命も無駄にしないで済むのではないかと改めて思います。

後悔しないために行動を起こすことを、常日頃から地域や近隣の仲間と
行うことも大切なことだと広村視察を通してさらに感じました。

みなさんも来たるべき災害を前に、まず何から行いますか?

グリーンシティ防災会
幹事長  佃 康雄
おまけ

道中の紀ノ川S・Aにて


≪和歌山ラーメン≫
しょうゆベースで魚介類のエキスとのコンビネーションが抜群のスープでした!

和歌山ラーメンと一緒に「めはり寿司」を注文しました。

高菜で回りを包みシソを混ぜたおむすびでした。サッパリとした味でした。

紀ノ川S・Aからは、高野山も見えるのです。

ちょうどの左奥の方向ですが・・・

運転手お二人のくつろぎのひと時。
大西会長(左)、吉崎副会長(真ん中)運転お疲れさまです。

長距離運転ありがとうございました。


大前修繕委員長の笑顔もGOOD!
熊野古道の起点なのでしょうか?

佃幹事長へ
京都から大阪を経て熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称のことですよ。紀伊路とも呼ばれています。
また、熊野街道は、摂津大坂(大阪)の渡辺津(窪津ともいう。大阪市中央区天満橋付近・現在銅板に刻まれたものが立っている)を起点に四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、堺、和歌山などを通り、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋だった。ちなみに京からは渡辺津までは淀川を舟で下ったそうじゃ。
きっと、天満橋付近の銅板を平林副会長が近々写真を撮ってくるでしょう!

大西会長ありがとうございました。

天満橋付近でぶいぶいされていた平林副会長の銅板画像を楽しみに・・・

さすが仕事が速い、平林副会長

”熊野かいどう”銅板を発見されたのですね!!



 町の真ん中に建っているんですね。


  ??誰に撮ってもらったのでしょう


私、大西は家内と行ってきました。

天満橋の土佐堀通りから南に少し・・・

なぜ、わざわざここに行ったかは秘密です!

熊野かいどう銘板地図
背中が寂しそう!
ヤマサ醤油、買いました

「稲むらの火の館」駐車場の傍らに、
小さな売店がありました。
その中に、このような醤油が販売されていました。

製造は、千葉県銚子となっていました。

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