防災会長ぶらり旅日記

2008年1月26日(土曜日)
 あの「稲むらの火」で有名な和歌山県有田郡広川町に行ってきました。

広川町とは

面積 65.31km2
総人口 7,895
(推計人口、2008年1月1日)
人口密度 121人/km2
町の木 アラカシ
町の花 ササユリ
広川町役場
所在地 〒643-0071  
和歌山県有田郡広川町広1500

東海・東南海・南海地震が同時発生
  宝永地震は、宝永4年10月4日(1707年10月28日)、中部、近畿、四国、九州の広い地域にまたがり、東海地震・東南海・南海地震が同時に発生し、地震の規模はマグニチュード8.6と日本最大級の巨大地震と推定されている。このとき、広村を襲った津波の高さは14メートルだった。
安政東海・南海地震
安政南海地震は、安政東海地震(1854年12月23日)が襲来したわずか32時間後に発生した南海道沖を震源とするM8.4の巨大地震で、近畿から四国、九州東岸に至る広い地域に甚大な被害をもたらせた地震である。 32時間前に発生した安政東海地震と共に被害が余りにも甚大であったがためにその年(嘉永7年)の11月27日に元号を嘉永から安政に改元するほどの歴史的な地震であった。このとき、広村を襲った津波の高さは8メートルだった。

「稲むらの火」とは、
  稲むらの火(いなむらのひ)は、紀州廣村(現代の和歌山県広川町)で起きた故事と、それを題材にした物語。
 1854年(安政元年)12月に発生した安政南海地震の際、津波の来襲に気付いた儀兵衛(後の濱口梧陵、作品中では「五兵衛」。ヤマサ醤油の当主)は、それを知らせるため、刈り取った稲に火をつけて住民を高台に避難させ、住民を津波の被害から守った、という内容である。
 この話は、小泉八雲(旧名:Patrick Lafcadio Hearn)が著作「生ける神」(" A Living God ")の中で紹介したことにより、海外にも広く知られている。またこの物語は、同町の小学校教員中井常蔵によって学校教材用に再訳され、1937年(昭和12年)から1947年(昭和22年)まで、国定教科書である尋常小学校5年生用「小学国語読本巻十」と「初等科国語六」に掲載されていた。さらに、アメリカ・コロラド州の小学校でも、副読本として「稲むらの火」の英訳「The Burning of The rice Field」が使われていたこともある。
  一般にもよく知られた話であるが、史実に基づいてはいるものの、実際とはかなり異なっている。儀兵衛が燃やしたのは稲の束ではなく、脱穀を終えた藁であった(津波の発生日が12月24日〈新暦換算〉で、真冬であることに注意)。また、儀兵衛が火を付けたのは津波を予知してではなく、津波が来襲してからであり、村人に安全な避難路を示すためであった。彼の偉業は稲むらの火よりは、被災後、将来再び同様の災害が起こることを慮り、私財を投じて防潮堤を築造した点にある。これにより広川町は、昭和の東南海地震・南海地震による津波に際して被害を免れることができた。
  2005年1月、インド洋大津波をうけてジャカルタで開催された東南アジア諸国連合緊急首脳会議でシンガポールのリー・シェンロン首相が当時の小泉純一郎総理大臣に「日本では小学校教科書に『稲むらの火』という話があって、子供の時から津波対策を教えているというが、事実か?」と尋ねた。しかし、小泉は戦後世代なのでこの話を知らなかった。東京の文部科学省に照会したが、誰も知らなかったということである。

       出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用しています。
濱口梧陵さんに出会うために!

広川町ホームページより引用

海沿いの道路を走り、まずは港に寄ってみました。その前に「稲むらの火の館」と言う小さな看板を見つけました。
まずは「そこに行ってみよう」と路地に入っていくと。

「稲むらの火の館」は、「津波防災教育センター 」「濱口梧陵記念館 」 の二つから成っており、中々素晴らしい建物ではないかと驚きました。
とりあえず、駐車場に車を止めて、案内看板を見に行きました。

下の写真をクリックすれば
大きくなります。



広川町・濱口梧陵観光マップ 濱口梧陵と歩く散策マップ

おや?今通ってきたところに「広村堤防」があったんだ!

立派な門構えで
とりあえず早く入ってみよう。
1858年完成か
広村を襲う安政南海地震津波之図 東海・東南海・南海地震の歴史 約150年からの空白期間 動く津波ハザードマップ マウスを使って・・・
なるほど!
津波防災のパネルブース 繰り返し津波の恐ろしさを映像で 津波防災のパネルブース 津波防災のパネルブース 繰り返し津波の恐ろしさを映像で
途中には、津波の恐ろしさを伝える3Dの津波映像や濱口梧陵さんの物語など沢山の展示がありましたが、写真で公開できないので残念!
「稲むらの火の館」
平成19年4月21日
仁坂和歌山県知事
白倉広川町町長
濱口家当主  濱口道雄氏(現ヤマサ醤油社長)
土地・建物の 寄付者=濱口和夫氏らが出席して 竣工式典が挙行されたそうだ。
プチ情報:濱口梧陵はヤマサ醤油の 7代濱口儀兵衛のこと
入口には元内閣総理大臣の小泉純一郎氏揮毫の石碑が建っている。
なかなか字がうまい!
ここが入口です。 「稲むらの火の館」の建物
 奥に見えるのが「濱口梧陵記念館」 背後が「津波防災教育センター」です。
通りの電信柱に見慣れないものが貼ってありました。
おぉー
ここまで何メートルの津波が入ってきますよと言うお知らせ看板だった。
町ぐるみで津波防災を!

感恩碑
往古の広村の歴史に触れながら、災害から広村を守り、発展させてきた幾多先人の遺徳を偲び、最後に濱ロ梧陵の偉業とその徳を称えたもので、昭和8年12月に建立されました。

内容 感恩碑を背にして、海を眺めてみました。 赤門と呼ばれる防潮扉
感恩碑
の横には大きな防潮扉があり、ここから入っていくと、「稲むらの火の館」がある。

なるほど、これが「広村堤防」かぁ

チョッと上に上がってみました。 おや、反対側は改修工事中だった。 史跡広村堤防の碑 少し歩くと、「津波避難地図」があった。
「津波避難地図」
津波と堤防の歴史か
宝永地震の津波は、14m
安政地震の津波は、8m
昭和南海地震は、4m
ふーん!
「津波避難地図」
津波防災に取り組む町
「稲むらの火の里」
毎年11月には「津浪祭」があるのかぁ
濱口梧陵の偉業に感謝・・・
・・・防災意識の次世代への継承の努力を・・・
「津波避難地図」

一時避難所かぁ

しっかりとした内容に驚き!
さぁ、梧陵さんの銅像へ急ごう!
梧陵さんの銅像は、耐久中学校の校庭にあった。

関係者以外立入禁止だが、
今日学校はお休みなので
チョッと失礼します。
「稲むらの火」について詳しく書かれている。
濱口梧陵翁銅像

・・・永く広川町民の鑑と崇拝されるものである。か!
濱口梧陵翁銅像

ここから中は立入禁止!
濱口梧陵翁銅像

遠くの海を睨んで立っておられる感じがした。
濱口梧陵翁銅像

何故か、南国ムードの椰子の木かソテツの木が?
中学校から出てくると、フェンスの無効になにやら銅像が寂しげに立っていた。
誰かをおんぶした像。
何だろう?
調べてみたが判らなかった。
近づけば良かった!
つぎに、梧陵さんのお墓参りもしてきました。
濱口梧陵墓(文部科学省・史跡)
「今日はありがとうございました。」

もう一度、もとのところに戻る道で
写真を!
この方角から「津波」が来たのかぁ。

 

生い茂った「広村堤防」 気になるのでもう一度
「パチリ」
おゃ、階段があるぞ!
ここからも「広村堤防」の上に上がれるようだ。
多分ここが、15世紀初頭に造られた
「畠山石堤」なんだろう。
なるほど
高さ5m幅20m長さ600m
の立派な堤防

このあたりがテレビに出てくるところだな。3年10ヶ月の歳月を費やし、延べ56,736人の人員をかけて見事に広村堤防は完成!

堤の上の通路は、約75pくらい。
防災の誓いを新たにする「津浪祭」は、既に100回を超えたそうだ。
いまでも多くの人が散歩しているみたいだ。
安政の南海地震(1854年)後梧陵が私財をなげうって創った広村堤防
堤防の向こう側から「海」を望む!
さぁ、車に乗って
広川町役場に行ってみよう!
何か発見できるかも?

「広村堤防」の横を通って

 

到着だ!

広川町役場ホームページ

まさに“防災という文化”のある町だ。

しかし、今日は休みだった!
おっ!
ここにも梧陵さんがいらっしゃるではないか。
松明をもって走る姿!
広川町民憲章
浜口梧陵翁を生んだ私たちの広川
町に誇りをもち住みよい町づくりを
めざし ここに町民憲章を定め
心を合わせて その実践に努めます
「稲むらの火」の広場
・・・小泉八雲「生きる神」で物語にされ、
戦前の小学校の教科書に「稲むらの火」
として登録されました。
・・・
松明を持って走る姿!?

こんなページがありました。
和歌山県のホームページより
紀州をたどる旅
上の左図水色の部分が安政南海地震(1854年)津波で浸水した広村




参考:防災システム研究所
山村武彦先生のホームページより

上の右図は広村堤防があったお陰で昭和の南海地震(1946年)津波の際は村の中心地(図の中央部)が浸水を免れ、被害が少なかった。


参考:防災システム研究所
山村武彦先生のホームページより

??? ここで ???
私はチョッと
疑問点が?

梧陵さんの前で座り込んで
考えてしまいました。
「百世の安堵を計れ!」
この言葉が、私の心に突き刺さるような思いがしました。
広村堤防横断図(北側から南向きに見た場合。海までの距離は埋め立て前)
  海側から(右から左に向かって)、18世初頭に畠山氏が築いた波除石垣(防浪石堤)、浜口梧陵が植林・築造した松並木(防浪林、防潮林)と土盛の堤防(防浪土堤)がある。


参考:防災システム研究所
山村武彦先生のホームページより
これだけ、素晴らしい「津波防災」をやっている町なのに?

「えぇー!なんで!町役場が海の前にあるの!」
「なにか考えがあってなのでしょうか?」
海岸沿いの避難場所なのか?
でも、役場がやられたら!?
だったら、他の施設でも良かったのでは?
今だけを良くするのではなく
この防災活動が後生の人たちにも伝えられ、後世の人も同じように防災減災に取り組むことなのではないのでしょうか!
広川町をあとに・・・
最後にこんな看板を見つけました。
「醤油発祥地」

上記の疑問を我らの師匠「吉村秀実」先生にぶつけてみました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
吉村先生!質問です。
あれだけ津波防災を訴えている町なのに、なぜ広川町役場は海沿いにあるのでしょうか?
これだけ立派な町役場をなぜこんなところに造ったんだ?
「広村堤防」の向こう側ならまだしも「何故?」と町役場の前の松明を持つ梧陵さんの銅像の前で座り込んで考えてしまいました。
先生!何故なんですか?
僕には理解できません!「百世の安堵をはかれ!」と言う梧陵さんの思いはこれで良いのでしょうか?
ごめんなさい言い方が悪いかもしれませんが、これでは素晴らしい「稲むらの火の館」がただのテーマパークに見えてしまいました。
「情けなく、そして悔しく思えた」僕の考えは間違っているのでしょうか?
それとも、町役場が津波防災に役立つためにあの場所なのでしょうか?

吉村先生からのメール
大西さん!
広川町の役場も、役場の前の銅像もよく記憶しています。
明治三陸大津波や昭和三陸津波、チリ津波などでひどい目に遭っている三陸沿岸には津波を防ぐための長大堤防が築かれていますが、今や、堤防の外に民家や商店が立ち並ぶ時代です。
K県も南海地震による津波被害を何度も受けて来た地ですが、K市郊外の新築の消防署が海岸のきわに建っていました。
「こんなところに消防署を作ったらダメ」と指摘しましたが、「高台の土地は高くてとても手が出ません」との答えでした。
ある学校で、防災に熱心な校長先生が、地震に強い校舎を作ろうとしました。
安全にはお金がかかるのが当然ですが、ここでのガンは会計検査院です。他の校舎は安く作っているのに、ある学校だけ飛びぬけてお金がかかるのは許せない・・・というのが会計検査院の主張です。
行政なんて所詮そんなもんです。だからいざという時には頼りにならないのです。
「自分の身は自分で守るほかはない」のです。
これでは、大西さんの答えにはなりませんか?
新潟県は世界一の豪雪地帯であり、地すべり地帯であり、地震の多発地帯です。
火山災害もあります。
ここで生まれ育った良寛さんが「新潟三条大地震」(1828)の後、知人宛てに「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候」という手紙を送っています。
良寛さんの悟りの境地と言いますか、「人間に痛い目に遭わなければ、対策は何も進まない」との心境でしょうが、
「痛い目」も最初のうちで、「鉄は熱いうち…」の諺どおり、「のど元過ぎれば熱さは忘れてしまう」のです。
こんな答えではいかがでしょうか?
 吉村 秀實

私たちのまちも、「継続」していくことを忘れずに頑張っていきたいと思います。
「のど元過ぎれば熱さ忘れる」ことのないようにしなければいけませんね。
毎年1月17日の前後だけ「形だけの防災」を掲げるだけでは駄目なのではないかとも思います。
加古川グリーンシティ防災会長
大西賞典